第二章 頂点
1978
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昨年から続くピンク・レディーブームはこの年78年にその ピークを極めるといえる。
年間売り上げでも、1位〜3位を独占。
レコード大賞、歌謡大賞を違う楽曲でW受賞
翌年から本格化するアメリカ進出のきっかけを掴むラスベガ ス公演、7万人コンサートなど
今までどの日本人歌手もできなかった偉業を次から次へと現 実のものとしていったピンク・レディー
そのピンク・レディーに明け暮れた1年を振り返ってみよう

ピンク・レディーの大ブームをどうぞご堪能下さい






PINKLADY  Best Hit's Alubum2

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第20回日本レコード大賞受賞シーンはこちら


B 面 はご 覧下さい

UFO  (3:10)1977.12.5発売  最高1位10週
  
(100位 以内32週 10位以内17週 3位以内12週)195万枚
作 詞:阿久 悠
作曲:都倉俊一
編曲:都倉俊一

B面
レディーX(2:39)
作詞:阿久 悠
作曲:都倉俊一
編曲:都倉俊一

昨 年の暮れに発売されたが、この78年レコード大賞受賞曲ということで、ここ78年の部へ掲載いたすとしよう。未 知との遭遇という映画がブームになったこの 年。ピンク・レディーはいままでの曲と全く異なるタイプの新曲UFOを発売。
今までもタイトルから感じる一種独特の雰囲気はここから全く方向転換。コレ歌になるの?というタイトルにみんなド肝を抜かれたのではないだろうか?ウォン テッドのなごりがまだ続いていた頃、衣装も雰囲気も今までとまるっきり違うUFOが翌年のレコード大賞を獲得し、最大のセールスを記録するとはこの新曲を 聴いた時点ではわからなかった。しかし、今でもピンク・レディーを象徴するユッフォのポーズはセンス抜群であると思うし、ユニークで斬新で何より人々を引 き付けるオーラを持ったこの曲はピンク・レディー の最高峰を表すのにもってこいの曲であると思う。この曲を境にピンク・レディーの印象は宇宙人的なものへと変わっていくこととなる。このことはブームの勢 いを助長することとなったが、本来二人(ミーとケイ)の目指す路線からは著しく逸脱していくこととなった。・・・がこの時ピンク・レディーというブランド が不世出のものとなった大きな要因はこの路線の成功によるものであり、世界的なスターとなるためのスタートはこの日本でのミリオンヒットも関与していると 思う。多くのファンを引き付ける魅力。それはただ単にどういう曲かということよりもあらゆる曲を表現できる力を持つかということである。その点からも歌っ て踊れる二人の存在は鬼に金棒といったところであろうか。
今まで、微妙に違っていたふたりの振りもこの曲だけはまるでコピーのように同じ動きを繰り返す。皮肉な ことにこの頃、ケイが盲腸炎で10日間入院。ミーはひとりでも踊れる全く同じ振りでひとりピンクを演じなければならなかった。

サウ スポー (3:34)  1978.3.25発売  最高1位9週 (100位 以内29週 10位以内13週 3位以内9週)180万枚
作 詞:阿久 悠
作曲:都倉俊一
編曲:都倉俊一

B面
アクセサリー(2:36)
作詞:阿久 悠
作曲:都倉俊一
編曲:都倉俊一


あ のUFOと並んでこの年(78年)の大賞 を数多く受賞したピンク・レディー代表曲のひとつ。以前某ドキュメント番組でこの「サウスポー」もうひとつのバージョンがあったことを知り、それも是非 CD化して欲しいと思う。ピンク・レディー一連のヒット曲の中でもアニメ的要素のもっとも強い曲で振り付けをファンから募集するなど、新しい試みも大成 功。今までの曲の中で動きにもっとも力の入った創りになっている。歌を見せるという徹底振りはここにきて更にエスカレートしている。振りだけで歌の内容が わかってしまうほど全てにおいてクオリティの追求はとどまるところ を知らなかった。イントロから今までになかったスピード感。季節的にも春の発売だったので、それともマッチしていたようにも思えるし、さわやかでこのころ からピンク・レディーの歌には自分達が出演するようになった。いよいよピンク・レディー自身のパロディの登場である。ピンク・レディーしか出来ない世界を このころから作り上げていくこととなる。冒頭で書いているが、アニメ的要素がいちばん強い。なぜかこの頃テレビアニメも全盛期でその主題歌らと似た印象を 受ける。ピンク・レディー自体が番組で主題歌はこの曲というように。イントロを聴いた瞬間もうチャンネルは変えられない状態になっていったのである。実は この曲も振りが2パターンあったことご存知だろうか。僕が記憶にあるのは、カックラキンという番組のときホットパンツではない衣装の時、サビの振りが違っ ていたのだ。今ではまず見られないだろうが、ハッキリ覚えている。ピンク・レディーグッズもこのサウスポーの衣装のものが氾濫していた記憶があるし、なに はともあれ夢物語はこのあとも更に続いていくのである。ちなみにB面のアクセサリーもけっこう好きだったなあ。

この衣装の時です。振りが違っていたの は

ピンク・レディーの妹
天馬ルミ子・石 野真子
このサウスポーを歌っている頃、初めてのバラエティー番組がスタートした。東京12ch(現テレビ東京)の「ハロー!ピンク・レディー」
その番組にはピンク・レディーの妹としてある新人アイドル歌手が出ていた。ピンク・レディーの当時の事務所T&Cの新人、名前は天馬ルミ子。本名は確 か・・・テンマダケとかいってた記憶がある。
でデビューし衣装はアルバムペッパー警部のジャケの衣装の黄色版のような衣装を着ていた。当時13歳の彼女はまだ、あどけない笑顔で「ピンク・レディーさ んのようにになりたいです。」と言っていた。デビュー曲はそこそこ知っているが第2弾「その時わたしはタクシーを止めた」はほとんど知らない。タイトルだ けは歌本でみた記憶があるので、なんとなく覚えている。(この時確か・・・秋川淳子という新人も一緒で「南南西」という曲だった。サビだけはなんとなく覚 えている)しかし、スターどっきりの寝起きコーナーなどに出ていたが、結局その年の新人賞レースにも入れず、ピンク・レディーが透明人間(この年の秋)を 歌っているときはほとんど見なかったように思う。この1978年は大型新人が非常に多かったのだからしょうがない。ピンク・レディーと同じスタ誕から石野 真子、渋谷哲平(石野真子はピンクさんと同じビクター)中原理恵「東京ららばい」渡辺真知子「迷い道」さとう宗幸「青葉城恋歌」など。石野真子ちゃんはよ く覚えている、吉田拓郎さんの書いた曲に阿久先生の奇抜な歌詞が印象的だった「狼なんか怖くない」まるでS・O・Sのアンサーソングのようである。たった 1年ちょっとの間に世の中の少女たちは強くなったもんだと思ってしまった。次の「わたしの首領」も奇抜な歌詞に拓郎節。この後、アイドルとして急成長する 彼女(石野真子)だった。石野真子といえば当時、けっこう好きでモンスターとわたしの首領は一緒に買ってもらった。(この時レコードプレイヤーを買っても らった。うれしかった〜)しかし、悲しいことに僕が中学1年に上がるとき4月号の表紙がピンクさんではなく石野真子さんだった。コレにはがっかり。その時 から石野さんの曲は聴かなくなった。(単純!)
さて、天馬ルミ子さんの方だが今から18年ほど前なつかしの〜の類の番組に出ていた。生バンドをバックにデビュー曲「教えてください神様」を歌っていた。 (一緒に鹿取洋子さんや桑江知子さんなんかも出ていた)78年当時はピンク・レディーの妹分として僕もけっこう応援してただけに久しぶりに
「教えてください神様」を聴いて更にピンク・レディーが時代だった頃が蘇ってくる想いであった。





←天馬ルミ子「教えてください神様」収録


モン スター (4:24)1978.6.25発売  最高1位8週  (100位 以内20週 10位以内11週 3位以内10週)160万枚
作 詞:阿久 悠
作曲:都倉俊一
編曲:都倉俊一

B面
キャッチ・リップ(2:45)
作詞:阿久 悠
作曲:都倉俊一
編曲:田辺信一


サ ウスポーに続く新しい世界観 は怪物。まるでアニメーションの世界そのものである。このモン スターになると創り 手たちの遊び心はさらにエスカレート。初回のプレスが60万枚を越えるな どまさに歌謡界のモンスターと称されていた通りピンク・レディー旋風は衰えることを知らず相変わらずの風力で吹き続けた。あのキャンディーズさんが解散し てグループアイドルとして女王の貫禄を見せ付けた後楽園球場でのサマーカーニバル。当初1日の予定が入りきれなくて2日に延長するという異例の事態もこの 頃の人気を裏付けるものだったように思う。このモンスター、以前長々とコラムを書いたが僕自身もっとも好きな世界観である。モンスターと称されているが実 は人々の心を歌っているのではないだろうか?見かけほど悪くないんだよとか、(人を見た目で判断するなというか)訳わかんないだよ人の心は。(この世の 中・・・)もっと複雑な解釈もあるが、阿久先生の詞はいつも複数のメッセージが込められているのです。歌とは曲アレンジに詞が加わって歌になるのです。カ タカナタイトルの中に素晴らしい日本語で表現されている歌詞、ピンク・レディーの曲もう一度歌詞カードを見ながら曲を聴いてみて下さい。2重にも3重にも いい意味でのトリックが隠されているのです。それがタイトルを見たときのワクワクさせられる期待感と聴いたときの衝撃が融合して大ヒットにつながっている のです。楽しい世界観は更にエスカレートして行き、この後シングル以外にも名曲が生まれることとなるのです。(アルバム星 から来た二人 )モンスターが日常 語になったのもこの時からでしたね。









透明 人間 (3:17)1978.9.9発売  最高1位4週
(100位 以内22週 10位以内12週 3位以内8週)115万枚
作 詞:阿久 悠
作曲:都倉俊一
編曲:都倉俊一

B面
スーパーモンキー孫悟空(2:51)
作詞:阿久 悠
作曲:都倉俊一
編曲:田辺信一


こ の曲が発売される頃、モンスターのあとの新 曲は発売されるまで全く分らなかった。色んな噂が飛び交ったがハッキリと断定したことはわからなかった。なんでも、ビクターの宣伝マンも手提げ金庫に資料 をしまって移動していたとか?それほどピンク・レディーの新曲はなにか?ということが一番の話題になっていた頃だったのだ。幾分ピンク・レディーブームに も陰りが見え出した頃であったが、それでも、予約だけで60万枚だというから凄い!トータルで115万枚の売り上げを記録。ただ、TBSザ・ベストテンに ランクインしたのは実に発売から1ヶ月経ってのことだった。この辺りがブームに陰りがさしだしたということであろう。(そのベストテンでは本当に消える演 出が話題を呼びましたね)UFOから続く空想路線もそろそろ潮時で当時アメリカへ世界発売のレコードの録音にいったというところから切り返しの曲に思え る。消えます!はこの路線から本当のピンク・レディーの姿へ移行するためのメッセージだったかもしれない。この頃ピンク・レディーに最高の贈り物歌謡大賞 が贈られる。寝る時間もなくただひたすら頑張ってきた二人にこの上ない最高の贈り物だった。思えば1年前1票差で取り逃がした歌謡大賞。この年は前年敗れ た沢田研二に9票もの大差をつけて文句なしの受賞だった。合わ せてUFOでレコード大賞を獲得したのはこの年の大晦日だった。
78年の暮 れはピンク・レディーにとってもう ひとつ重大なことがあった。年末大晦日のNHK紅白歌合戦の出場を辞退するということだ。ふたりを応援するファンの多くは子供たち。その子供たちの中でも 東京葛飾の盲学校の生徒たちのためにコンサートを開くというのである。それも大晦日の夜。紅白が放送される時間である。その模様を日本テレビが生中継する といったところから対紅白とマスコミは書きたてた。このことは色んな波紋を呼んだ。当時紅白を目指さない歌謡曲の歌手などいなかった。当然ピンク・レ ディーも前年やっと初出場を果たしたばかりであった。周りに踊らされていると酷評を受けたりもしたが、ピンク・レディーのふたりは、「チャリティっていう となにかいいかっこみたいに思えるでしょう?だから自分たちも何か犠牲にしなくちゃ」「今年みたいな年はもうないかも知れない。だったらピンク・レディー を一番応援してくれている子供たちのためにやらなくちゃ」 「10月にここの盲学校を訪れたときみんな寄ってきてわ〜ミーちゃんの声だ〜ケイちゃんだ〜って もの凄く喜んでくれて・・・歌ってって言われたんだけどその時はなにも準備してなかったから今度絶対みんなの前で歌うからね!って約束したんです」という コメントをしている。僕はその時しか出来ない事を選んだピンクさんは素敵に思えます。こんなこと、当時のピンク・レディーにしか出来ないことです。この時 からしばらく紅白へは縁がなくなりましたが、面白いことに平成になって3度も紅白に出場しています。やはりなんといわれようとこの時紅白を蹴ってまで行っ たチャリティコンサートは正解だったように今、思います。ちなにみこの時の視聴率8.8%だったとか。まだ紅白の視聴率が80%を超えていたころ、この年 初めて80%を割ったそうです。おそるべしピンク・レディー。ちなみにちなみにレコード大賞受賞者が紅白に出場しなかったのは後にも先にもピンク・レ ディーだけでした。










ピンク・レディーが時代だった頃の歌謡界
僕はこの1977年(S52)〜1978年 (S53)の歌謡界が最も好きだ。ピンク・レディーが軸として回っていた頃。今でも残っている名曲が多いし、その曲を聴くといつもテレビの歌番組にピンク さんが出ていたことを思い出す。
どちらかといえば、アイドルと呼ばれる人たちより、後にニューミュージックといわれる歌手の方たちがたくさん出始めた頃である。ツイスト、アリス、渡辺真 知子、原田真二、松山千春、チャー、サーカス、八神純子・・・などなどあげればキリがない。ベスト10番組にもアイドルよりこのニューミュージック系の歌 手のランクインが目立っていた。アイドルと呼ばれる歌手でも実力派の岩崎宏美や中島みゆきからの曲を提供された桜田淳子、男性陣でも新御三家くらいだった と思うし「赤頭巾ちゃんご用心」のレイジー(ピンクさんのハロー!ピンク・レディーにも出てました)なるグループも後々はあのラウドネスであるし、沢田研 二はアイドルというより、スターという雰囲気であった。そしてピンク・レディーの永遠のライバルである山口百恵。彼女の歌うプレイバックPart2はも し、ピンク・レディーがいなかったら第1位を獲得したであろう。それほど、曲、アレンジ、コンセプト全てが1本の映画のように凝った作りで非常に面白い出 来だと思う。コレは百恵さんにしか歌えない1曲だと思う。この頃の音楽界はピンク・レディーブームの真っ只中にあって1位の座はほとんどをピンク・レ ディーが獲得したがその合間をぬって1位の座についたのはほとんどがニューミュージック関連の曲であった。かわいくて、ルックス重視のアイアドルと呼ばれ る歌手がベスト10ヒットを出すようになったのは、実に百恵、ピンクが去った後だったのだ。この当時のバリバリのアイドル榊原郁恵(夏のお嬢さんくらいか な)、大場久美子、石野真子あたりもなかなかベスト10までには及ばなかった。いってみれば、それだけクオリティの高い楽曲が非常に多かった年だといえ る。今でも歌い継がれている曲は実にピンク・レディーが時代だった頃に生まれたものが多いのだ。
ヒット曲がみんなのも のだった頃、それがピンク・レディーが時代だった頃なのかも知れない・・・・・。

カメ レオン・アーミー (3:51) 1978.12.5発売  最高1位6週 
 
(100位 以内18週 10位以内9週 3位以内8週)125万枚
作 詞:阿久 悠
作曲:都倉俊一
編曲:都倉俊一

B面
ドラゴン(4:27)
作詞:阿久 悠
作曲:都倉俊一
編曲:都倉俊一


さ あ、多くのファンが好きで好きでたまらない というカメレオン・アーミーの登場です。(写真もサービスしてでっかいのを載せました)僕的にはある意味ピンク・レディーブーム(あくまでブームというこ とにこだわって)ラストシングルという印象を受けます。前々作のモンスターでほんとのモンスターになったあと突然の消えます発言!そして、 応援していただ いたファンたちに感謝の気持ちをこめて1位獲得最後の曲となりました。この私の親衛 隊!と高らかに歌い上げピンク・レディーブームは終結を迎えるのでした。この後ふたりはミラクル伝説となって不思議な旅へと旅立ちました。 僕らのもとへ戻ってきた時には、かつてのピンク・レディーではなくPINKLADYへと変貌を遂げ、ますますファンの心を掴んで離さないショー ガールズへと今もなお進化し続けています。世代を超えて、時代を超えてピンク・レディーは未来へと躍進しているのです。
 さて、ここはコラムのコーナーではなかったのですがついつい普段の調子が出てきてしまいました。カメレオン・アーミーについて・・・当時の記憶では、ま たまたうちのおやっさんの登場です。うちのおやじはこのカメレオン・アーミーを聞いたときこの歌のほうが透明人間よりいい歌だと申しておりました。確かに 僕もそう思いました。またまた今までとは違うベンチャーズを思わせるサウンド。ジャンジャラジャンジャージャンジャラジャンジャーがベースになってますよ ね。モンスターのジャジャジャジャジャジャジャジャ(!?)同様好きなリズムです。新しい試みはこれも大成功でした。子供志向から少し大人志向へと変貌を 遂げた印象を受け、あのLOVE COUNTDOWNと平行して今後が楽しみだなあと思ったものでした。今復活公演でこの曲まだ歌われてませんが、最後の 最後、出てくると思いますよ〜。ファンの気持ちを何より大切にするミーちゃんケイちゃんです。おいしいものは一番最後なのではないでしょうか?(そう信じ たい僕なのです 笑)このカメレオン・アーミーで新しく取り入れたのは、サウンドがベンチャーズ志向ということ、そして初めて男声のコーラスを入れたこ と、そしてそしてオープニングの振りでミーさんケイさんが交互に前を向くということだったと思います。とくに見せることにこだわったピンク・レディーとし てあのサウスポーではじめてミーさんケイさんが重なって画面を見てる人たちにイナイイナイバー状態を見せた後だっただけにミーさんケイさんを交互に見せる という技は期待感を持たせる意味で最高の演出だったと思います。(赤ちゃんがイナイイナイバーを好むのは変化に対して期待感を持たせるからだそうです)こ の演出はこの後マンデー・モナリザ・クラブでもやりましたが同じ技は2度通じないのですね。うちのチビが1〜2歳の頃そろそろ来るカメレオンの振りをよく やってました。それも上手にあのミーちゃんの足の動きそっくりに・・うちの子はピンク・レディーをリアルタイムだと勘違いしてるかもしれません。(笑) しょうがないねえ、お父さんの娘だからねえ。(笑)

ここまでを振り返って
全 盛期のピンク・レディーはカメレオン・アー ミーで終止符を打ったが、ここまでの10曲は完全完璧なる10曲であった。最後のはなむけにレコード大賞というお土産をもらい「あなたたちはこれから世界 中の人たちに夢を与える使命があるんですよ」と神様がいったかどうかは分らないが、その通り世界へと羽ばたいていった。目指すところは黄金の国ジパング だったのだろうか?さてさて、本題です。ピンク・レディーが全盛期の頃の歌謡界といったら、バックコーラスのお姉さんたちが、必ずといっていいほどいまし たね。今ではバッキングボーカルっていうんでしょうか?当時の色んなヒット曲のレコードにもバックコーラスそれもチュルル〜とかそんな感じの。
入ってましたよね。例でいうと岩崎さんのシンデレラ・ハネムーンとか桜田さんのリップ・スティックとか渋谷さんのDeepとかほかにもありますが・・・。 ここでっ!ピンク・レディーの曲が今もなお古臭くない要因はこのバックコーラスのお姉さんたちが関与していることにお気づきでしょうか?ピンク・レディー も当時歌番組やライブでは当然のごとくこのお姉さんたちがいました。UFOならチュッチュッチュッダバダチュッチュッ。サウスポーなら シーンと静まっ あった(サララッパパパパパパー)とか今聴くととても古臭いコーラスで時代を感じてしまいますが、レコード盤にはそれが入ってないんですよ。気がつかれま したか?そういうセンスが今もなおかっこよく聞こえるし、当時斬新といわれた要因なのではないかと思いますよ。全部が未来を予測していたというかなんか今 となってみると凄く不思議なんですが。ピンク・レディープロジェクトの作り上げたものはやはり永遠というテーマだったのではないかなあと、この全盛期を振 り返って思うのであります。














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