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第二章 頂点
1978
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覧下さい
作
詞:阿久 悠
作
詞:阿久 悠
| ピンク・レディーの妹 天馬ルミ子・石 野真子 このサウスポーを歌っている頃、初めてのバラエティー番組がスタートした。東京12ch(現テレビ東京)の「ハロー!ピンク・レディー」 その番組にはピンク・レディーの妹としてある新人アイドル歌手が出ていた。ピンク・レディーの当時の事務所T&Cの新人、名前は天馬ルミ子。本名は確 か・・・テンマダケとかいってた記憶がある。 でデビューし衣装はアルバムペッパー警部のジャケの衣装の黄色版のような衣装を着ていた。当時13歳の彼女はまだ、あどけない笑顔で「ピンク・レディーさ んのようにになりたいです。」と言っていた。デビュー曲はそこそこ知っているが第2弾「その時わたしはタクシーを止めた」はほとんど知らない。タイトルだ けは歌本でみた記憶があるので、なんとなく覚えている。(この時確か・・・秋川淳子という新人も一緒で「南南西」という曲だった。サビだけはなんとなく覚 えている)しかし、スターどっきりの寝起きコーナーなどに出ていたが、結局その年の新人賞レースにも入れず、ピンク・レディーが透明人間(この年の秋)を 歌っているときはほとんど見なかったように思う。この1978年は大型新人が非常に多かったのだからしょうがない 。ピンク・レディーと同じスタ誕から石野
真子、渋谷哲平(石野真子はピンクさんと同じビクター)中原理恵「東京ららばい」渡辺真知子「迷い道」さとう宗幸「青葉城恋歌」など。石野真子ちゃんはよ
く覚えている、吉田拓郎さんの書いた曲に阿久先生の奇抜な歌詞が印象的だった「狼なんか怖くない」まるでS・O・Sのアンサーソングのようである。たった
1年ちょっとの間に世の中の少女たちは強くなったもんだと思ってしまった。次の「わたしの首領」も奇抜な歌詞に拓郎節。この後、アイドルとして急成長する
彼女(石野真子)だった。石野真子といえば当時、けっこう好きでモンスターとわたしの首領は一緒に買ってもらった。(この時レコードプレイヤーを買っても
らった。うれしかった〜)しかし、悲しいことに僕が中学1年に上がるとき4月号の表紙がピンクさんではなく石野真子さんだった。コレにはがっかり。その時
から石野さんの曲は聴かなくなった。(単純!)さて、天馬ルミ子さんの方だが今から18年ほど前なつかしの〜の類の番組に出ていた。生バンドをバックにデビュー曲「教えてください神様」を歌っていた。 (一緒に鹿取洋子さんや桑江知子さんなんかも出ていた)78年当時はピンク・レディーの妹分として僕もけっこう応援してただけに久しぶりに 「教えてください神様」を聴いて更にピンク・レディーが時代だった頃が蘇ってくる想いであった。 ←天馬ルミ子「教えてください神様」収録 |
作
詞:阿久 悠
このモン
スターになると創り
手たちの遊び心はさらにエスカレート。初回のプレスが60万枚を越えるな
どまさに歌謡界のモンスターと称されていた通りピンク・レディー旋風は衰えることを知らず相変わらずの風力で吹き続けた。あのキャンディーズさんが解散し
てグループアイドルとして女王の貫禄を見せ付けた後楽園球場でのサマーカーニバル。当初1日の予定が入りきれなくて2日に延長するという異例の事態もこの
頃の人気を裏付けるものだったように思う。このモンスター、以前長々とコラムを書いたが僕自身もっとも好きな世界観である。モンスターと称されているが実
は人々の心を歌っているのではないだろうか?見かけほど悪くないんだよとか、(人を見た目で判断するなというか)訳わかんないだよ人の心は。(この世の
中・・・)もっと複雑な解釈もあるが、阿久先生の詞はいつも複数のメッセージが込められているのです。歌とは曲アレンジに詞が加わって歌になるのです。カ
タカナタイトルの中に素晴らしい日本語で表現されている歌詞、ピンク・レディーの曲もう一度歌詞カードを見ながら曲を聴いてみて下さい。2重にも3重にも
いい意味でのトリックが隠されているのです。それがタイトルを見たときのワクワクさせられる期待感と聴いたときの衝撃が融合して大ヒットにつながっている
のです。楽しい世界観は更にエスカレートして行き、この後シングル以外にも名曲が生まれることとなるのです。(アルバム星
から来た二人
作
詞:阿久 悠
もの大差をつけて文句なしの受賞だった。合わ
せてUFOでレコード大賞を獲得したのはこの年の大晦日だった。
れている子供たちのためにやらなくちゃ」
「10月にここの盲学校を訪れたときみんな寄ってきてわ〜ミーちゃんの声だ〜ケイちゃんだ〜って
もの凄く喜んでくれて・・・歌ってって言われたんだけどその時はなにも準備してなかったから今度絶対みんなの前で歌うからね!って約束したんです」という
コメントをしている。僕はその時しか出来ない事を選んだピンクさんは素敵に思えます。こんなこと、当時のピンク・レディーにしか出来ないことです。この時
からしばらく紅白へは縁がなくなりましたが、面白いことに平成になって3度も紅白に出場しています。やはりなんといわれようとこの時紅白を蹴ってまで行っ
たチャリティコンサートは正解だったように今、思います。ちなにみこの時の視聴率8.8%だったとか。まだ紅白の視聴率が80%を超えていたころ、この年
初めて80%を割ったそうです。おそるべしピンク・レディー。ちなみにちなみにレコード大賞受賞者が紅白に出場しなかったのは後にも先にもピンク・レ
ディーだけでした。ピンク・レディーが時代だった頃の歌謡界 僕はこの1977年(S52)〜1978年
(S53)の歌謡界が最も好きだ。ピンク・レディーが軸として回っていた頃。今でも残っている名曲が多いし、その曲を聴くといつもテレビの歌番組にピンク
さんが出ていたことを思い出す。どちらかといえば、アイドルと呼ばれる人たちより、後にニューミュージックといわれる歌手の方たちがたくさん出始めた頃である。ツイスト、アリス、渡辺真 知子、原田真二、松山千春、チャー、サーカス、八神純子・・・などなどあげればキリがない。ベスト10番組にもアイドルよりこのニューミュージック系の歌 手のランクインが目立っていた。アイドルと呼ばれる歌手でも実力派の岩崎宏美や中島みゆきからの曲を提供された桜田淳子、男性陣でも新御三家くらいだった と思うし「赤頭巾ちゃんご用心」のレイジー(ピンクさんのハロー!ピンク・レディーにも出てました)なるグループも後々はあのラウドネスであるし、沢田研 二はアイドルというより、スターという雰囲気であった。そしてピンク・レディーの永遠のライバルである山口百恵。彼女の歌うプレイバックPart2はも し、ピンク・レディーがいなかったら第1位を獲得したであろう。それほど、曲、アレンジ、コンセプト全てが1本の映画のように凝った作りで非常に面白い出 来だと思う。コレは百恵さんにしか歌えない1曲だと思う。この頃の音楽界はピンク・レディーブームの真っ只中にあって1位の座はほとんどをピンク・レ ディーが獲得したがその合間をぬって1位の座についたのはほとんどがニューミュージック関連の曲であった。かわいくて、ルックス重視のアイアドルと呼ばれ る歌手がベスト10ヒットを出すようになったのは、実に百恵、ピンクが去った後だったのだ。この当時のバリバリのアイドル榊原郁恵(夏のお嬢さんくらいか な)、大場久美子、石野真子あたりもなかなかベスト10までには及ばなかった。いってみれば、それだけクオリティの高い楽曲が非常に多かった年だといえ る。今でも歌い継がれている曲は実にピンク・レディーが時代だった頃に生まれたものが多いのだ。 ヒット曲がみんなのも のだった頃、それがピンク・レディーが時代だった頃なのかも知れない・・・・・。 |
作
詞:阿久 悠
そして、
応援していただ
いたファンたちに感謝の気持ちをこめて1位獲得最後の曲となりました。この私の親衛
隊!と高らかに歌い上げピンク・レディーブームは終結を迎えるのでした。この後ふたりはミラクル伝説となって不思議な旅へと旅立ちました。
僕らのもとへ戻ってきた時には、かつてのピンク・レディーではなくPINKLADYへと変貌を遂げ、ますますファンの心を掴んで離さないショー
ガールズへと今もなお進化し続けています。世代を超えて、時代を超えてピンク・レディーは未来へと躍進しているのです。
全
盛期のピンク・レディーはカメレオン・アー
ミーで終止符を打ったが、ここまでの10曲は完全完璧なる10曲であった。最後のはなむけにレコード大賞というお土産をもらい「あなたたちはこれから世界
中の人たちに夢を与える使命があるんですよ」と神様がいったかどうかは分らないが、その通り世界へと羽ばたいていった。目指すところは黄金の国ジパング
だったのだろうか?さてさて、本題です。ピンク・レディーが全盛期の頃の歌謡界といったら、バックコーラスのお姉さんたちが、必ずといっていいほどいまし
たね。今ではバッキングボーカルっていうんでしょうか?当時の色んなヒット曲のレコードにもバックコーラスそれもチュルル〜とかそんな感じの。| 第20回日本レコード大賞 受賞 おめでとうミーちゃんケイちゃん |