1979
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ピンク・レディー世界進出!
数多くの偉業を達成してきたPINKLADYブランドがいよいよ世界のヒノキ舞台へ
この世界発売のKiss in the darkのジャケット写真をクリックしてお進み下さい。
pinklady Best
Hit's Album ミラクル伝説 編
各写真をクリックしてくださいその曲に飛び
ます
。ここに再び戻るにはそこのジャケ写をクリックするとここに戻ります。
さあ、みなさんここから本当のピンク・レディーの歴史がスタートです。あの日本列島
に吹き荒れたピンク・タイフーンがいよいよ世界へ。そして本当のピン
ク・レディーとはなんだったのか、とことん追求していきます。ではどうぞ。
B
面
は ご
覧下さい
”ミラクル伝説”ジパ
ング (3:24) 1979.3.9発売 最高4位
(100
位以内13週 10位以内5週) 90万枚
作
詞:阿久 悠
作曲:都倉俊一
編曲:都倉俊一
B面
事件が起きたらベルが鳴る(3:54)
作詞:阿久 悠
作曲:都倉俊一
編曲:都倉俊一
あ
の激動の78年を過ぎたピ
ンク・レディーはこの年からいよいよ本格的にその舞台を世界へと移していく。79年春の第1弾はこの曲ジパング。このジパングはちょうど、11曲目のシン
グルでターニングポイントにはちょうどキリのいい数字だ。
MyBestSelection のところで事件が起きたらベルが鳴るについて少
し触れているが、デビュー曲ペッパー警部以来久しぶりにA面をどちらにする
かモメた曲。それだけ今回は気合が入っていたのだろうか?数々の記録と数々の栄誉を手にしたピンク・レディーだがレコード大賞を獲った瞬間、そのブームは
終止符を告げた。こらから先はほんもののピンク・レディーが期待されることとなる。その意味をも持ってミラクル伝説ジパングがA面に決定した。この年のシ
ルクロードブームの先駆けとなるはずであったが、ピンク・レディーの不思議な旅はある種迷いの旅となった。ふたりの目指すジパングとはもう過去のものだっ
たのだ。常に未来へ向けて発進していたUFOはいきなり過去へと逆そうすることに。その逆そうに多くのファンはふたりを見失ってしまったために1位が獲れ
なかったのだろうか。この曲
の持つほんとの意味はなんだったのか?
前年の春に発売されたサウスポー同様いきなりイントロから軽快なテンポで繰り出すフレーズはやはりピンク・レディーの曲という印象を受けるが、どこかつか
み所がない、さわやかでいい曲なのだが今までのA面にあったはずのインパクトが薄いのである。ようするに普通になってしまったんですね。キャッチ・リップ
では1位はとれないと書いたことがありますが、普通の曲ではやはり1位はとれないのでしょう。ここでピンク・レディーブームは終結したことが決定的になり
ました。この後、ブームの余韻は夏まででした。
しかし、ピンク・レディーを語るときブームだけ語るのは雑誌の表紙だけをみてるようなもの。さあここからそのページをめくってみましょう。不思議な旅の始
まりです。1位が獲れなかったからなおさらこのジパングは貴重な転機となったのですから・・・。
今回のツアーで改めて聴いてこの曲の良さが分った気する。ちなみにこの曲も2パターンの振りがあった。フィニッシュポーズが2パターンありました。
ピンク・レディーにちょっと関連?コーナー
ゴ
ダイゴ
国際児童年のこの年ピンク・レディーに代わって?子供たちの人気を集めたのがゴダイゴ。
前年暮れからヒットしたガンダーラは上に紹介しているジパングと何か似通った印象を受ける(曲のテーマとして)そしてピンク・レディーもスーパーモンキー
孫悟空を歌っていたがこのガンダーラとモンキー・マジックはともにNTV系西遊記のテーマソングとして人気を博した。NTVもピンク・レディーと関連が
あったが孫悟空がらみというのも面白い関係だ。そして国際児童年のこの年テーマソングとして歌われたビューティフル・ネーム。本当であれば子供たちの人気
No.1ピンク・レディーに歌ってほしかった気もしないでもないが・・・。銀河鉄道999のテーマソングも星から来た二人、UFOのような夢のある世界観
であるし。当時クラスでもピンク・レディーのレコードは買わなくても、ゴダイゴのレコードは買っている人もいて、なんとなく時代の移り変わりを感じてい
た。当のピンク・レディーも前年までと打って変わって世界進出が一番の大プロジェクトだっただけに子供たちの喜ぶような歌は歌わなくなっていった。
このゴダイゴの曲を聴くといつも思うのがピンク・レディーとの入れ替わり?だったかなあと・・・。ゴダイゴのヒット曲にも夢のある異国情緒?あふれる雰囲
気が多く感じられ、世界へ飛び立ったピンク・レディーの後、子供たちに夢を見せてくれたように当時を振り返って思うのである。
ピンク・タイフー
ン(IN THE NAVY) (4:05) 1979.5.1発売 最高6位
(100
位以内17週 10位以内8週) 70万枚
J.Morali-H.Belolo-V.Willis
作詞:岡田冨美子
編曲:大浜和史
B面
ハロー・ミスター・モンキー(3:00)
Ben Juris-Benny Lux
編曲:前田憲男
不
思議な旅、第1弾ジパングがすべってしまっ
たため、緊急リリースされたのがこのピンク・タイフーン。(すべったからか定かではないけど思うような売れ行きでなかったことは確かでしょう。)79年5
月1日の発売。
この日はメーデーじゃなく、(笑)あの
KissInTheDarkが全世界に向けて発売された日なのである。この年の代表曲ともいえるあの
「ヤングマン」と同じくヴィレッジピープルの新曲
をカバー。やはりカバーといっても、そこがピンク・レディー。オリジナル仕立てに染め上げている。同じく渋谷哲平さんもヤング・セーラーマンのタイトルで
カバーしましたね。(リアルタイムのかたは覚えてるでしょう)ここで、ピンク・レディーはまたしても遅れを取ってしまったようです。えっなにが?と思って
らっしゃる方々、分ります?全盛期のピンク・レディーはすべて先へ先へと時代を読んできました。・・が、ヤングマンと同じ発想という時点で2番手になって
しまってるではないですか。あの百恵ちゃんのひと夏の経験などの路線をその翌年十七の夏などでいった淳子ちゃんみたいなものです。常にトップをキープして
いたピンク・レディーが2番手。か〜っ悔しいなあと当時思ってました。が・・・なにはともあれ、この曲のお陰でコンサートでは起爆剤的ポジションを獲得。
今までの都倉サウンドにはなかった遊び心が一番の特徴でしょう。ワンツースリーワンツースリ−ワンツースリーウー!とは宴会などでも定番のお手を拝借!と
一緒ですからねえ。盛り上がりますよ〜。この曲をカバーしようと思ったスタッフのみなさんさすがですねえ。そういえば何かのインタビューでミーさんがこの
IN THE NAVYを初めて聴いたときピンクレーディーと聞こえたそうです。実はヴィレッジピープルさんもそれをねらってたんでしょうか?(笑)僕の
バレーの友達(女の子)は試合前この曲で気合をいれるそうな。その試合はほとんど勝ってるそうな。縁起のいい歌なんでしょうね。やっぱピンク・レディーは
偉大です。僕の奥さんもこの曲が一番好きだそうで、ピンクさんありがとうといつも思っています。ただB面までレコーディングする余裕などなかったのでしょ
うね。できればレコーディングした「忘れたいのに」が聴きたかったです。今でもそう思うことがあります。「忘れたいのに」は全盛期のコンサートでいつも最
後に歌ってた歌です。大好きな曲でした。
波
乗りパイレーツ (3:44) 1979.7.5発売
最高4位
(100位以内13週 10位以内7週) 55万枚
作
詞:阿久 悠
作曲:都倉俊一
編曲:都倉俊一
B面
波乗りパイレーツ -USA吹込み盤-(4:29)
作詞:阿久 悠
作曲:都倉俊一
編曲:Paul Fauerso
ピ
ンク・タイフーン緊急リリースのあと、夏の
定番曲波乗りパイレーツの登場です。なんと、半年の間に3枚ものシングルを発売するなど、めまぐるしくピンク・レディーを取り巻く環境に変化が現れ始めた
ころ。この曲もアメリカでの活動を意識したものであのビーチ・ボーイズとの共演も実現するなど、国内から世界へ向けた活動はここでも、顕著に現れている。
楽曲的にはこれも普通の感じでさわやかな夏がよく描かれていると思う。渚の〜よりもっとポップで軽快なリズムは印象に残る曲調に仕上がっているのでは?と
思う。
動き的にはコレといって印象に残る動きは減ったかなあと思うが・・・。(やはり前年の夏モンスターと比べると)この年になるとジパング以降の新曲には
もうモンスターも透明人間も背番号1の凄い奴も出てこないふつ〜うの世界を歌い始めた。一般的には踊って歌っているからなにも変わったようには見え
なかっ
たかもしれないが、歌の世界観の中には独特のものはもう含まれていなかった。売り上げのほうも普通で、空想の世界から現実に・・まるで夢から覚めていくよ
うな、魔法がとけていくような印象を受けた。ブームの余韻はこの曲までとなる。流れ的にこの夏の波乗りパイレーツを普通路線に変えていったのは、この後の
ことを考えてのことだったのか・・も・知れない。今回の復活コンサートで
この曲を久々に聴いてあの当時もっとヒットしてもよかった曲だったんじゃないかなあと思ってしまいました。がピンク・レ
ディーは宇宙人のようなイメージが固定してしまったため普通の曲ではもうお客は納得しなかったんだろうか?78年までは3ヶ月に1回のペースで新曲をリ
リースしていたが、2ヶ月となるとやはり早すぎてアレもう新曲?と思った大衆はいたかも知れない。歌も踊りも覚える時間が無さ過ぎたかも?しれませんね。
個人的にはこの曲の発売日が僕の結婚記念日で披露宴のときもこの曲、使わせていただいたのである意味思い出の曲になっているのですが。この曲も阿久-都倉
コンビの作品で前作ピンク・タイフーンを聴いているせいかなにかホッとさせられるのは何故でしょう。やはりふたりに血を通わせられるのはこのコンビなので
しょうね。なんかピンク・レディーの持ち味を知っているというか。しかし、このコンビもこの後あのマンデー・モナリザ・クラブを書き上げて、解消すること
となる。
ピンク・
レディーにちょっと関連?コーナー
チャゲ&飛鳥
みなさん、ご存知のチャゲ&飛鳥(CHAGE&ASKA)ですが、ピンク・レディーとの共通点ってあるのですよ。
少々こじつけかもしれませんが、まず、年が同じだということ(チャゲさんが昭和33年の1月飛鳥さんが昭和33年2月ケイさんは昭和32年9月ミーさんは
昭和33年3月学年はみんな一緒です)そして学生時代からの同級生であるということ。ヤハマ出身というのも一緒だし、なんといってもデビュー日が両グルー
プとも8月25日なんです!ピンクさんは1976年チャゲさんたちは1979年です。(そういえば、フィンガー5も8月25日だったなあ)それと、立ち居
地分ります?高音で主にハモルほうが左側、声が太くて主旋律を歌うほうが右側なんです。ミーさんとチャゲさんケイさんと飛鳥さん。ね!そうでしょ?そして
一番肝心なこと、当たり前ですが両方ともデュオですね(笑)
そのデュオに関して・・・ デュオはデュオになる
べくしてなっている。ということです。どちらも、それぞれソロでもいい歌唱を聴かせてくれますが、やはり二人の合った声が抜群に響いてくると思います。
(同感という声が聞こえて来そうですが・・)チャゲそしてミーちゃん(なんでチャゲだけ呼び捨てなんだよう 笑ゴメン)ふたりの高い声は魅力があります
が、どうしても歌にパンチがないそこにもう片方(ケイさんと飛鳥さん)が加わることでパワーが増す!コレがデュオの持つもっとも最強の武器なのです。言い
換えてみれば、裸の声に服を着せるようなイメージです。もっと詳しくいえば、骨だけのガイコツに肉をつけてひとりの人間が誕生すると言った感じです(分り
にくいかなあ?分った??)コレは自分の経験上思ったことなのです。自分も歌う声が細く高いほうなんです(今はチト太くなったかなあ?まあ声量はついたと
思い
ます 笑)以前ある方とコンビを組んでチャゲアスをやったことがあるのですが、その方が結構声が太くて僕と歌うとほんとにいい具合にハマルのです。歌って
てほ〜んと心地よかったのを覚えています。その時思ったのです「俺の声に服を着せてもらってるみたいだ」とね。その時以降、ピンクさんとチャゲアスの歌を
聴い
てみると違って聴こえたのです。やっぱり、デュオとして成功したグループはなるべくしてなったのだと、改めて思いました。ふたりでひとつ とはよく言ったも
のだと思います。みなさんは如何、思われますか?
KISS
IN THE DARK (2:56) 1979.9.5発売 最高19位 (100
位以内15週) 35万枚
作
詞:Michael Lloyd
作曲:Michael Lloyd
編曲:John D'Andrea
B面
WALK AWAY RENEE (3:05)
作詞:Mike Brown-Bob Calilli
作曲:Tony Sansone
編曲:Erich Buling
ピ
ンク・レディーとは・・・楽しくなるような
夢の世界を歌ってきた。現実にはないけど誰もがあったら楽しいかなとか希望をもてるような歌。それがピンク・レディーの歌の最大の魅力である。い
つの時代でも関係なくすべてを超えて楽しくなるような世界。ピンク・レディー独自の世界観である。
夢、それは誰もが抱く感情であり、その夢を見続けたいと願う希望がいつも隣り合わせにいる。
日本人からみればアメリカもその夢のひとつではなかっただろうか?あの猛烈なブームの後、この英語で歌うピンク・レディーはわれわれにもうひとつの夢を見
せて
くれたような気がする。アメリカンドリームという言葉がかつてあってようにUFOもモンスターも透明人間もそのドリームのひとつであったのだ。ピンク・レ
ディーという存在はやはり夢、なのかもしれない。
最初、LoveCountdownがアメリカでのデビュー曲のはずだったが、彼女たちをプロデュースしたマイケルロイド氏の判断により、彼の作ったこの
Kiss in the darkがデビュー曲に決定。5月1日世界発売そして日本では9月5日に発売された。
彼の作戦通り、Kiss in the
darkはビルボード誌で37位まで上昇。日本人歌手としては坂本九さんの「スキヤキ」以来の快挙といわれ、このあとビルボード誌でトップ40入りした日
本人歌手はいたのだろうか?(はっきりとはいえないが多分いないのでは? 詳しくはこちらのビルボードのコー
ナー参照 )
あのLove countdownと比べると、このKiss in the
darkの方がリズムが軽快で乗りやすく当時の流行だった70年代ディスコサウンドの特徴をふんだんに取り込んでいるように思う。先日のミュージックフェ
ア出演の時もこの曲をリアレンジして歌っていたが今も色あせることのない名曲だと誰もが認めたであろう。歌唱力だけで判断すれば、彼女たちより、歌のうま
いデュオはたくさんいるが、何度も書いているが(OH!STEPのディアマンテスのところで)歌はうまいか下手かではなくいいか悪いかなのだ。彼女たちの
かもし出すオーラはだれにでもマネの出来るものではないと思う。日本でスーパースターといわれても、アメリカでは・・・?というほどアメリカのショービジ
ネス界はそんな生やさしい世界ではない。そこでTOP40入りしたのだから、これは素直に凄い!と認めるべきであろう。ジパングは知らなくてもこの
Kiss in the
darkは知っているという人もいるくらい、この曲もピンク・レディーを代表する曲なのだと思う。ちなみにこのマイケルロイド氏、あのうたかたの原曲であ
るStrengers When We
Kissも書いている。アメリカでの阿久-都倉コンビといったところだろうか。アメリカでのピンク・レディーを最大限に生かした方だと思う。
マ
ンデー・モナリザ・クラブ (3:49) 1979.9.9発売 最高14位 (100
位以内12週) 45万枚
作
詞:阿久 悠
作曲:都倉俊一
編曲:C.Merriam
B面
アダムとイブ・スーパーラブ(3:45)
作詞:阿久 悠
作曲:都倉俊一
編曲:都倉俊一
1976
年8月あのペッパー警部 でデビューし
てから3年とにかく全速力で駆け抜けてきたピンク・レディープロジェクトもここで大きく変わろうとしていた。二人を支えてきたあの阿久-都倉コンビはこの
曲
を最後にプロジェクトから離れていくこととなる。Kiss in the
dark日本発売からわずか4日後この曲、マンデーモナリザ・クラブは発売された。
今までのピンク・レディーとは全く別の世界、楽しさとか夢とかそういうものではなく、一種のけだるささえ漂わせる大人の歌。とみなさん思われるでしょう
が、僕は今までの路線の延長であり、この曲が最後の阿久-都倉コンビの作品だということで、歌詞の中にその思いは託されてると思う。やはり出だしから斬新
な言葉で大人のピンク・レディーを表現している。イカリの刺青を隠したポパイが小枝
のような娘を抱きしめても嘆きのマンデーナイト 。モンスターも透明人間も登場しないがここで初めてポパイを登場させている。粋な計らいでは
ないか。さすが最初の掴みは素晴らしいと思った。嘆きのマンデーナイト と
は、サンデーをピンク・レディーのブームとたとえるならその後、そうです。ブームが去った後の事でしょう。あのブームの余韻をうまく表していて不思議な旅
はこれからまた新たにスタートをきったとでもいうかそんな印象を受けました。だからは
しゃいだ翌日は何故だか淋しい のです。大変だったけどなくなると淋しいのかも。そして中盤の歌詞そんな夜は私についておいで誰も皆夢の中へ誘い込まれ時を忘れた 。あの大ブーム
を象徴しているかのようにも聞こえる。やはりピンク・レディーの曲である。巧みな言葉で夢の世界へ誘う模様は阿久先生の歌詞でなければならないのである。
阿久-都倉コンビが抜けることで次なる展開はアメリカしかなくなってしまったのだろうか?不思議な旅は果てなく続くことに・・・阿久先生の書いた本にピン
ク・レディーがブームの終盤にさしかかった時、解散を提案したそうだ、綺麗なまま終わらせたいと、でもアメリカ進出がスタートしたばかりでそんな事は出来
ないといわれある意味ラストシングルの想いでこの曲を書き上げたのかも知れない。阿久-都倉コンビのふたりが「俺達は抜けるけどがんばれよ」といってるよ
うな気がしてならない。プロジェクトチームにとっては色々な意味で感慨深い曲なのだと思う。当の
本人たちも(ミーさんケイさん)永い間待ち望んでいた曲、と声を合わせていったと言う。今まで寝る時間もなくただ、ただ目の前のものをこなしてきたふた
り、常に第1位を獲らなければならないと
いう使命のもと大変なプレッシャーと戦ってきたふたり。そんなふたりに最も好む世界をプレゼントした阿久-都倉コンビ。しかし、その想いは低年齢化した
ファン層には理解できるはずもなく、とうとうベスト10入りすら出来なくなってしまった(最高14位)いつしかブームは去りヒット・チャートからも消え
て、なんのプレッシャーもなくなって初めて歌いた
い歌が歌えるというのも皮肉な話だが。以前ある番組であのフィンガー5のアキラくんがフィンガー5の活動当時を振り返り「歌いたくない歌は売れ
るけど歌いたい歌は売れないん
ですよねえ」とおっしゃってましたが、この事はピンク・レディーにも当てはまるのでは?と思う。最初はとにかくヒットを!願っていても、それがあまりにも
売れてくると、だんだんみんなの思惑とは違う方向に行ってしまうということはよくある話だが、ピンクさんの場合はそれがもっとも極端に表れてし
まった例かもしれない。一度宇宙へ飛び立ってしまったものが再び地球に戻るにはまた大気圏を突入しなければならない。墜落するかどうかの瀬戸際だったの
だ。しかし、ピンクさんは方向転換することで地球に戻ってこれたような・・・そんな感じである。ヒットチャートというのは不思議な空間であり、いい曲であ
れば売れるという保障はない。当然今までヒットチャートの常連だった歌手が出てこなくなるというのは、人気が落ちたと思うであろう。しかし、ピンク・レ
ディーのふたりにしてみればあの地獄のような生活からやっと抜け出せたのだから幸せだったかも知れない。神様がある意味救ってくれたのだ。少し
ゆっくり眠りなさいと・・・。そして歌いたかった歌が歌える。最高ではないか!(前向きなSTEPです。)
このマンデー・モナリザ・クラブ、ファンの間ではダントツ人気の曲であるが、はて?何故だろう。理屈抜きにいい曲、かっこいい曲など理由は数あると思う
が、ホンマモンのファンはピンク・レディーの本当の魅力を知っているからである。それはライブなどでも洋楽のカバーやディスコサウンド、ロックなどピン
ク・レディーのビートの効いた迫力のあるボーカルは多くのファンを魅了してきた。しかし、そういった感じの曲がシングルには無かった為である。唯一
WANTEDくらいだろうか、ダーク調の迫力のあるボーカルといえば(あの百恵さんのプレイバックpart2に引けをとらない迫力?いいえそれ以上か
も?)このマンデーでその願いが叶ったのである。人間がんばればいいことありますよ。(うれし涙・・・)あるプロダクションの偉い方がおっしゃってました
「ファンというのは最初ヒット曲の量を欲しがる、そしてその後は質のいいものを欲しがる」と。いきなり目の前に上質のカルビをジュッと焼かれたかのような
状態だったかも(笑)でも量はあまりたくさんない、貴重なものなのだ。ピンク・レディープロジェクトはここにきて本当の意味でファンたちに対しても最高の
置
き土産を置いていって下さったようにも思えるし、たった1ヶ月しかテレビで歌わなかったのにこれほどまでに人気があるというのは冒頭で触れたみんなのやさ
しい気持ちがこもった
曲・・
だからかも・・いや、きっとそうだと思う。この曲を作っていただいて本当にありがとうと言いたいです。できれば再録音して再リリースして欲しいと思いま
す。
DO
YOUR BEST (4:07) 1979.12.5発売 最高36位 (100
位以内9週) 30万枚
作
詞:伊達 歩
作曲:都倉俊一
編曲:井上 鑑
B面
愛しのニューオリンズ(3:43)
作詞:伊達 歩
作曲:都倉俊一
編曲:都倉俊一
前
作マンデー・モナリザ・クラブで大きく変化
をみせたピンク・レディープロジェクトは次なる展開をオリンピックに絞り込んだ。この曲はモスクワオリンピックの選手強化キャンペーンソングでした。阿久
-都倉コンビ解消後、作曲の都倉先生だけが居残り状態で曲を提供。B
面の愛しのニューオリンズはアレンジまで都倉先生である。(A面は井上鑑 氏)オリンピックという舞台でこの曲を披露してればまたピンク・レディーの知名
度もあがっただろうが、一度歯車が噛み合わないとうまく事は運ばず、このオリンピックは幻となる。(80年モスクワオリンピックボイコット)このことは出
場予定だったそれぞれの選手にとってはなんとも悔しいことであったが、ピンク・レディーにとってもこれ以来、日本での人気は急降下となる。僕がこの曲を思
うとき一番、残念なのはこの曲も出来れば阿久先生の詞でいって欲しかったなあということである。前作マンデー・・・で大人のピンク・レディーを斬新な言葉
で表現していたが、実は後日談で「できれば、オリンピック中継もピンクの歌にしたかった」と述べているからであり、このDO YOUR BESTというタ
イトルでどんな詞を書いたのだろうと想像すると、なんとも残念に思うのである。色っぽい歌詞も言葉で全く変わってしまうのです。実際この曲の詞は正直好き
ではありません。「私を獲るためベストを尽くしなさい」みたいなのがなんともストレート過ぎてこまま英語詞に訳したほうが・・と思ってしまうのです。色っ
ぽい歌詞ほどセンスの要るものはありませんし、当時小学生でしたがなんとなく拒否感すら覚えたものです。ジャンヌダルクの生まれ変わりよとは、この系列は
あのカルメン77で一度使ってますしね。「変なうた」とクラスメートの子がいってたのを思い出しました。もっと、想像を超えられるような言葉が欲しかった
なあと今でも思います。曲のほうは前作からなるロック色の強い仕上がりでアメリカを意識してることがうかがえますが・・・。B面の「愛しの・・」もまさに
アメリカですね。まるでダイアナ・ロスのイメージだと思う(僕的には)この時、阿久-都倉コンビの偉大さを感じました。都倉先生のメロディーに阿久先生が
詞をつける。やっぱ、これがピンク・レディーなのかなあと思い、片方(都倉先生)だけでは、完璧ではないと感じました。が、いつまでも、同じことは繰り返
していられないのです。あのブームは去ったのですから。この曲は一気に人気急降下(最高
36位)。もう歯止めが利かないくらいピンク・レディーの日本での人気は落ちて行った。ブームが去ったことでこの後、ピンク・レディーはこの日本をしばら
く留守することとなる。新たなる本物を求めて・・・。アメリカでの一番の大仕事が待っていた。しかし、皮肉なことに時はもう80年代に突入する頃だった。
ピンク・レディーの不思議な旅は更に続いていくのである。
ここで僕の当時の思い出をひとつ。この曲が発売されたのが、79年12月、この頃は年末の賞番組が多数あるが、あのレコード大賞の予選の時、会場にカメレ
オン・アーミーの衣装を着たピンクさんを発見!ワクワクしながら見ていたがとうとう金賞の10曲には入れなかった。その時僕は悔し泣きに泣いたんですよ。
誰にも見られないように、(笑)今思うとおかしいなことですが(笑)あの頃からピンクさんのことをこんなに思ってたんだなあと思いました。
ここまでを振り返って
1979
年という年はピンク・レディーにとっ
て一番の転換期を迎えた年だったように思う。それは春のシングル「ジパング」と最後の「DO YOUR BEST」の違いであきらかであろう。アメリカデ
ビューが一番の大きく輝かしい仕事だった反面、日本での人気の降下。でも、僕はこの年のピンク・レ
ディーが一番好きです。確かに人気は徐々に落ちていったが(ある意味79(泣く)年だったかも・・笑)前年を上回る好作品を多数リリース。アルバムらしい
アルバムもリリースするなど、あの大ブーム
と引き換えにほんとの意味でピンク・レディーという名前にふさわしい楽曲を僕らファンたちに聴かせてくれたからである。この1年で発売した枚数はシングル
6枚、アルバム5枚。新曲が常に3ヶ月に1枚ペースだったのが、2ヶ月ペースに変わった前半、しかし、あの阿久-都倉コンビ作品としては春にジパング、夏
に波乗りパイレーツ、秋にマンデー・モナリザ・クラブだからペース的には一緒である。ただ、アメリカ関係が間に挟まっているため、枚数が多くなっているの
である。アルバムも前年まではライブアルバムが多かったのと対照的にオリジナルが増えていることが特徴だった。(やっとレコーディングする時間がとれたの
でしょう)出来れば、ライブ盤ももう1枚欲しかったが・・・。(左の写真にあるように、西武球場でのライブ、出して欲しかったなあ)売り上げの方は前
年から比べると激減したが・・・。確かに勝てば官軍の世界ではある。
売れなければ話にならないのかも知れない。でも、売れることだけに固執してしまっては新たな可能性は生まれない。あれだけ売れたのだからもういいだろうと
個人的には思う。ジパングで連続1位の記録が途絶えてやっと自由の身になれた二人。ミーさんケイさんの後日談で「私たちが望んでいたピンク・レディー
の姿ってアメリカでの姿だったかもしれない」とおっしゃてる通りやはり、本来のピンク・レディーはこの年からスタートしたといえる。ヒット・チャートなど
という小さい枠の中だけにピンク・レディーを閉じ込めておくのはもったいないと神様が仕掛けたのだ。ピンク・レディーというのはそんなものさえも超越する
力があったのかもしれない。だからマンデーのような曲がピッタリはまるのです。アイドルというにはあまりにも可能性がありすぎたピンク・レディー。アメリ
カ進出は単にブームの延長ではないのである。力がなければデビューなど出来るわけがないと思う。
ピンク・レディーの凄さってほんとはミリオンセラーの連発
よりこの年から始まるアメリカ進出の方なのではと思う。まさにこの年は、前年の上をいく奇跡を起こした年だったとい
えるでしょう。ミラクル伝説の1年だったことは間違いありません。
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