第四章 解散
1980〜81
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ピンク・レディー現役最後の大仕事、アメリカNBCテレビ レギュラー番組出演の後
解散発表!多くのファンに惜しまれつつひとつの時代に幕を 下ろした。










pinklady BestHit'sAlubum  不思議な旅 magical tour編

各写真をクリックしてください。シングル OH!の右はアメリカ進出関連。その右横は総括です。
再びここに戻るにはそこのジャケ写をクリックするとここに戻ります。

ピンク・レディーのことを紹介するとき70年代後半。と必ず記されている。それほどに80年代というものはピンク・レディーに対して冷たい季節だったよう な気がする。丁度、世代交代といわれたこの時期。ピンク・レディーにとって一番ドラマティックな時期であったし、この時期のピンク・レディーは本物を目指 すため不思議な旅へ本格的にスタートを切った。果てしなく続くMagicalMusicTourへ、さあ、出かけましょう!
B 面 はご覧下さい

愛 GIRI・GIRI (4:11) 1980.3.5発売  最高58位  (100位以内4週)20万枚
作 詞:伊達 歩
作曲:小田裕一郎
編曲:川上 了

B面
秘密のパラダイス(3:24)
作詞:伊達 歩
作曲:小田裕一郎
編曲:川上 了


1980 年の幕開けはアメリカNBCのレギュ ラー番組の仕事から始まる。昨年からのアメリカ進出がここにきてレギュラーを持てるとは・・・。日本でもデビュー1年足らずの新人がレギュラーなんか持て たためしがないというのに、前人未到の大記録はここに来てまた1つ増えたのである。どこまで、伝説を作ったらいいのでしょうか。だが、アメリカでの華やか さとは裏腹に日本ではこの頃から解散ニュース1本やりという年でしたね。かつて旋風を巻き起こした二人組みは奈落の底へと突き落とされることとなる。それ ほどまでに80年代という年は二人には辛すぎる時期であった。この曲愛GIRI・GIRIはそんな噂が飛び交う中発売された曲でした。口の悪い人は「解散 GIRIGIRI」などといって、中傷していた。かつての華やかさはもう日本にはなかった。当時アメリカで活躍していた頃、日本では1回しかテレビで歌っ てないのにラジオ番組で1位になったという話があった。本当の姿を知ってるファンたちにとってこの時期は同じく正念場だったのだ。その頃僕は中学1年生、 ピンク・レディーの代わりに石野眞子さんが表紙になった中1コースを取ってみて悔しい思いをしたものです。(笑 思い出話です)
阿久-都倉コンビが完全に抜けて、いかにも再スタートという感の強い名曲である。タイトル通り至上の愛を歌った本当の大人の歌。しかし、僕には当時刺激の 強すぎる歌として記憶に残っている。歌詞が・・・凄すぎる・・・どんな形でも〜ってなんやと想像をふくらませたり(思春期に入った頃でしたから 笑)して いた。ピンクさんも一挙に大人になっちゃってと思い、サビのDon’t foget  meいつでも忘れないで〜とは日本にいないからファンたちにメッセージなのだろうか?と思っていたのだ。ホントにそう思っていた。心の中でいつも忘れない よ〜と叫んでいたものだ。ホントに。この曲テレビで見たことがなかったので自分で振り付け考えてました。でも先日ほんとの振りを見てしまってやっぱ違うわ (関西弁)と思ってしまいました。僕のイメージの中ではこの曲マイクスタンドで歌うイメージでした。活字だけではわかりにくいと思いますが、サビの部分は 腕を頭の上でクロス(Don’t)で次に左右に開く(foge)で前(t)で腰(me)という感じサビはね。お二人に教えたいと思っていたころもありまし た。(とんでもないですが) 今聴いてもこの曲は素晴らしい名曲。脱阿久-都倉コンビの意気込みが凄く感じられてこれからは企画物なしで本物のピンク・レ ディーをお見せします!というようにも取れました。ヒットしなくて本当に残念でした。ただ、当時22歳くらいのふたりには歌の世界観が大人すぎた気もしま したが、今のピンクさんならバッチリ合ってるように思えました。いろんな経験の中、素敵に進化し続けるおふたりには今が一番の女ざかりのようにも思えてな りません。更に魅力を増大させてるピンク・レディー。この曲は永遠がテーマのピンク・レディーにとってちょっと早いプレゼントだったのかもしれませんねえ 。

ピ ンク・レディーのアメリカ進出について

ピンク・レディーのアメリカ進出については賛否両論あるが、やった事自体は素晴らしいことだと思う。
ただ、日本人特有の”ひがみ”がもたらした結果ピンク・レディーはメディアに叩かれることとなる。
今はまだ、開けてきていると思うが、今から20数年前の日本はまだまだ閉ざされた部分が多かった。
あの山口百恵さんが人気絶頂時に結婚、引退と女の生き方を選び、あくまでも控えめの印象は日本人のもっとも好む姿であり、その印象は今でも菩薩と称される ほどの人物として記憶に刻まれている。堅実が美徳だった頃の日本において、当時ピンク・レディーの行った行動(仕事)は天狗になってると思われたであろ う。デビューからわずか2年でレコード1000万枚を売り上げ歌謡大賞、レコード大賞を違う楽曲で獲るなど、今までの歌謡界にはありえなかった記録を打ち 立てたのだからしょうがない。その勢いで調子に乗ってアメリカ進出と思ったのではないか。あのNHK紅白辞退がそもそもの引き金という節もある。当時 NHK紅白に出場できたらギャラがUPするといわれていたそうで(今はわかりません)まだまだ紅白の力が強かった時期にチャリティのためとはいえ辞退は大 きかったと思う。しかし、この紅白辞退もアメリカ進出も今では当たり前のように行われている。個人を尊重し、古い体質は排除する動きは各方面で行われてい る。たまたま、時代にそぐわなかっただけなのである。なんでも最初に違うことをやると叩かれるのが世の常。阿久-都倉が生み出した最初の路線は見事成功し たが、まだ島国根性の強かったころの日本にとってアメリカ進出をたいして歌える歌手じゃないのに、と思っていたかもしれない。それほど、ピンク・レディー の歌唱は注目されていなかったのだ。お遊戯の延長としての評価しかなかったのである。なにせ、歌謡曲が主流の時代、欧米のポップスをほんとに理解している 先生方はどれほどいたのであろう。今振り返るとアメリカ進出は後にたくさんのアーティストが目指したがはっきりとした成果を上げたアーティストは何人いた だろうか?。ショービジネスの本場アメ リカでどんな形であろうと受けるということは並大抵のことではないと思う。僕の周りでもアメリカのピンク・レディーを今でも酷評している人がいるが、確か に歌も踊りも発展途上の部分もあったかもしれない・・が、本物でなければTOP40入りもレギュラー番組もなかったのではないだろうか?相手を認めるということはコラム2年 目のジンクス(ピンク・レディーの風に参照)にも書いているが、そろそろピ ンク・レディーのアメリカ進出をもっと前面にだして認めることも必要なのでは?と思うが、それがもっとも人にとって難しいことなのかも知れない。ピンク・ レディーのミリオンヒットは今もなお賞賛され、後期のことについてはほとんどが触れられていない。
単なるムーブメントの一部としての評価だけでは話半分のような気もするが・・・。いろいろ、御託を並べてきたが僕が思うにこれから先、いつかきっとピン ク・レディーのアメリカ進出は高い評価を得るであろう。いつか・・・。






今 全国ツアーで再び最高のエンターテイメント を披露しているおふたり。1度そのステージを見た方はピンク・レディーの凄さを改めて認識している ことであろう。欲をいえばあの当時3ヶ月で帰国したおふたりであったが、もう少し修行(失礼!)のつもりでアメリカの仕事をやってほしかった気もする。全 盛期レッスンする暇もなく付け焼刃の状態で仕事をこなしていたという。もうブームも去ったのだからゆっくりピンク・レディーというブランドに磨きをかけて 欲しかったかなと思ったりもする。まあ、その時はその時でおふたりの考えもあったのでしょうからいたしかたありませんが。(ミーさんはアメリカ、ケイさん は日本を選んだそうです)。でも今全てを越えて一番輝いてるのはピンク・レディーのおふたりのような気がします。紅白辞退もアメリカ進出も踊らされたと酷 評されてましたが、どちらも純粋なおふたりの勇気が選ばせたことだと思いますし、あれはあれで正解だったと僕は確信しています。あの松田聖子さんも一時期 マスコミから叩かれましたが、違うことをすれば必ず叩かれます。でもいいものは必ず残ります。ピンク・レディーのアメリカも残ると思うのです。可能性とい うものはそういうものなのです。ピンク・レディーとしての可能性はまだまだ未来に向かって大きく羽ばたいているような・・・そんな気がします。

上の写真はその当時日本の雑誌に掲載されたもの。特に下の写真のおふたり、最高にさわやかである。ピンク・レディーはやはり栄光の天使たちなのである。

ピン ク・レディーのアメリカ進出についてもっと詳しく知りたい方はPINKLADY SexyDynamite!のアメリカページへ!!!



アメリカから帰国後雑誌に掲載された手記です

世界英雄史 (4:10) 1980.5.21発売  最高45位  (100位以内4週)15万枚
作 詞:伊藤アキラ
作曲:川口 真
編曲:川口 真

B面
ザ・忠臣蔵’80(4:20)
作詞:伊藤アキラ
作曲:川口 真
編曲:川口 真


こ のページをご覧の皆さんはどう思われている のでしょうか?この曲のことを。
やはり、ピンク・レディーの曲だから好きなのでしょうか?それとも疑問符の残る曲だと捉えるのでしょうか?僕はこういう曲も面白いと思いますが、(まあこ れもこんなタイトルの歌なんてピンクさんならではと思われる点もありますが)やはり疑問符は残ります。アメリカ帰りのピンク・レディー。KISS IN  THE DARKやマンデー・モナリザ・クラブそして前作愛GIRI・GIRIなど人気後退と引き換え に名曲目白押しの中、あまりにも浅はかな企画もの。透明人間やモンスターなど以前のイメージをここで再びとでもいうのでしょうか?以前OH!STEPの MyStepのコーナーにも載せたことがありますね類似品だということを。COME BACKとは人気ComeBackだと思います。過去の英雄たちをま さについこの間までの自分達に置き換えているいわば皮肉にもとれる内容のような気がします。確かに低年齢化したファンた ちにも分りやすくと思ったのでしょうが、同じタイトルでもあの阿久先生なら未来への希望に変えたかもしれません。常にピンク・レディーの曲は想像するだけ で楽しい未来が描かれていました。が、この曲はすべてがバックステップ。終始過去にこだわった内容がピンク・レディーらしさを欠いている気がします。しか し、この時点では解散ニュ−スを払拭し、私たちは健在です!とアピールしたかったのであろうと思われる。歌の内容ではなく激しく歌って踊るピンク・レ ディーを表現したかったのかも知れない。・・・が、であればDancingInTheHallsOfLoveでもよかったのでは?と思ってしまうのだ が・・・。曲はビートの聴いたロック色の強い曲で結構のれる気もするが、まあ愛嬌といったところであろう。でも、当時の雑誌にも起死回生を賭けた新曲!と 記されていたことを思うと愛嬌で済まされたのであろうか?疑問ではある。一番の踏ん張り所でコケてしまった印象は拭い去れないように思うのだが・・・。衣 装雰囲気ともにアメリカ帰りをアピ−ルするほどであっただけにもっとクオリティを追求して欲しかったという思いはある。なにはともあれこの時期百恵さんは ロックンロールウィドウを歌い引退結婚に向けて一直線。代わって次の時代をリードしていくあの松田聖子さん(僕の好きな河合奈保子さんもこの時期)がデ ビューそしてブレイク。そんな時、解散の噂だけが先行する中、ただひたすらカムバ〜ックと歌うピンク・レディーは確かにその時代を終える支度をしているよ うにも見えた。

 
この頃からミーとケイはそれぞれ違う方向性を出してきた

うたかた-Strengers when we kiss- (3:21)1980.9.21発売  最高48位  (100 位以内10週)25万枚
作 詞:三浦徳子
作曲:Michael Lloyd
編曲:川口 真

B面
BY MYSELF(4:21)
作詞:三浦徳子
作曲:川口 真
編曲:川口 真




ピ ンク・レディー解散発表!このニュースは新 学期が始まったその日にクラスで話題となった。あ〜とうとう来たか〜と新学期早々ショッキングな話題はゆううつな気持ちにさせる。あんちピンク・レディー の奴らは「ほうら解散するじゃ ないか〜」と俺らファンのことを囃し立てる。まだ、残暑が残る中暑い風に混じって時折吹く冷たい秋風に心が凍りそうになる。悔しさだけが先行するなんと も、もの悲し い2学期のスタートであった。前作世界英雄史でほんとにもう駄目なのかと思ったのかは分らないがふたりの気持ちの中にはもうピンク・レディーを辞めたいと いうほうが強かったのだろう。記者会見のときのふたりのコメントはファイナルコンサートのパンフに載っているが、疲れきったふたりの表情にはやるだけやっ たという想いが伺える。
 う たかた この曲は解散発表が行われてから 発売となるがすでにテレビでは歌っていた。あのアメリカで出したLPからのカット (StrengersWhenWeKiss)この曲に日本語詞をつけたのは三浦徳子氏曲のイメージにぴったりでこの解散発表の時期と重なって切ない大人の ラブソングに仕上がっている。詞のセンスは素晴らしい阿久先生が抜けたあと、久々にいい詞だなと思う。上品でストレートではない回りくどい表現が Strengersのイメージと見事マッチしていてこの曲は前作よりもヒットした(最高48位)
人気というものがまだピンク・レディーの周りにいたらこの曲は日米のスタンダードになったかも知れない。といえば大袈裟だが、それほどの名曲である。ピン クファンでなくとも認める名曲といえる。変な勝負をせずに今のふたりを出せる歌としてこの曲が選ばれたのだろうが、出来ればアメリカ帰り直後のシングルで あれば、またインパクトも違ったかも知れないと思う。うたかた僕の好きな曲第2位である。
この後ピンク・レディーのふたりは、自分の生き方をみつめながらピンク・レディー最後の日々を送ることとなる。



リメンバー(フェーム) (4:11) 
1980. 12.5発売 
 最高86位  
(100位以内4週)10万枚
M.Gore-D.Pitchtord
日本語詞:なかにし礼
編曲:梅垣達志

B面
カトレアのコサージ(3:18)
作詞:藤 公之介
作曲:梅垣達志
編曲:梅垣達志


12 月5日発売。毎年年末のこの日は常にピン ク・レディーのターニングポイントとなる曲が発売されてきた。77年はUFO(レコード大賞受賞曲)78年はカメレオン・アーミー(最後の1位)79年は DO YOUR BEST(阿久-都倉コンビ解消後の曲)そして80年の12月5日はこの曲リメンバー。解散が決まって今までの想いを綴っているような感 じである。フェームという映画の主題歌であのアイリーン・キャラが歌って大ヒットしたナンバーのカバーである。ピンク・タイフーン以来のカバー曲で「やる だけやった」と歌っていることから、えっ?これがラストシングル?カバー曲が?と思った人もいたかもしれないが、ご安心あれ、実はこの年の暮れに新宿コマ 劇場(もう武道館ではなかった・・・)を皮切りにスタートしたさよならコンサートのための緊急リリースなのだ。この曲のジャケット写真は僕がいちばん好き な写真である。世間の冷たい空気とは裏腹になんとさわやかな笑顔であろうか。目的、つまりゴールの見えたピンク・レディーはただ燃え尽きることだけを目標 に悔いのない時間をと考えていたと思われる。ただ、この曲を歌うときのピンク・レディーの印象は・・・レコードの方がうまいかなあ・・・。というのも、テ レビもしくはステージで歌っても力みすぎ(空 回りの印象)という ことが思い出される。これからほんとに最後なんだ!と気持ちも強かったと思うが、なんとなく、細かい部分をもっと丁寧に歌って欲しいなあと思っていた。そ れにやり終える仕事を・・ゴールを目前に充実感の影で見え隠れする淋しさを感じていた。ヒットしない現実は声を大にして「やる だけやった」と歌ってもなぜか空しさだけが通り過ぎて行く思いがした。この頃同じ時代をつくった山口百恵さんはすでに引退。70年代のスーパースターと言 われたユニットはただ時が流れて行くのを待ってるような・・・そんな風にも見えた。ヒットチャートでもページの半分(50位以内)にも入れず、解散を発表 してからまたして も一気に下降していった。僕はふたりのあまり出ない歌番組をボーッと見ていた。年が明ければ待ってるのは解散だということをまだ現実味の無いもの として捉えていた頃であった・・・。

オープニング
星から来た二人

(メドレー1)
ペッパー警部
S.O.S
カルメン’77
渚のシンドバッド
(メドレー2)
モンスター
透明人間
カメレオン・アーミー
(メドレー3)
乾杯お嬢さん
ピンクの林檎
パイプの怪人
逃げろ!お嬢さん
レディーX
(メドレー4)
波乗りパイレーツ
マンデー・モナリザ・クラブ
うたかた

帰り来ぬ青春(ケイ)
春風の誘惑(ミー)

(メドレー5)
ウォンテッド
UFO



サウスポー
KISS IN THE DARK
リメンバー

グッバイ・ソング
ダンスに夢中(EN)
ピンク・タイフーン(EN)
カリフォルニア・ブルー(ケイ)(EN)
コール・ミー(ミー)(EN)
キープ・ミー・ハギング・オン(EN)
ラスト・ダンス
エンディング

1980年の12月27日17:00の回 の
新宿コマ劇場でのセットリストです。
6回の衣装替え、5回のアン コールでした。

投稿者の方による曲目詳細です。
ありがとうございました。










1981 年

LastPretender  (3: 34)   1981.1.21発売  最高85位  (100位以内4週)10万枚
作 詞:糸井重里
作曲:高橋ユキヒロ
編曲:高橋ユキヒロ

B面
AMENIC(逆回転のシネマ)(2:54)
作詞:糸井重里
作曲:梅林 茂
編曲:EX

ピ ンク・レディーの凄さって何でしょう?正直 申しましてこの曲LastPretenderが発売された時、改めて思いました。1981年1月21日発売。YMOの高橋ユキヒロ氏作曲作詞はライターの 糸井重里。YMOは以前から自分たちのステージでウォンテッドなどの曲をやっていたとかで解散にあたりメモリアルソングを提供したらしい。そして、もうひ とつ、YMOも時を同じくしてアメリカ進出を行っていた。結果は日本のメディアでは大成功!・・・が実際はアメリカのライブハウスなどでの公演くらいで街 にはピンク・レディーのKiss In The Darkが流れ、テレビではピンク・レディーの番組が放映される。といった状況だったという。でも、日本ではYMO大成功!ピンク・レディー大失敗と報じ られていたのだ。いかに日本のメディアがいい加減(は言い過ぎ・・ごめんなさい)全くアメリカの情報が正確に入ってこなかったかを表している事実である。 この事はYMOのみなさんの口から伝えられた。そんな関係もこの曲を提供した理由のひとつではないだろうか?ピンク・レ ディーには当時からコアなファンが結構いたらしく、YMOもその1人(?組)だったのかもしれない。プリテンダーとは詐称者の意味。作られたスターという 印象が大きかったピンク・レディーはこの曲で自分たち自身を否定していると雑誌には載っていた。失くしたものはいつもキラキラのダイヤモンドに思えるのと いう未練がましい最初の歌詞が象徴的である。もう過去の栄光へは戻れないのねとでもいうべきか当時の周りを皮肉っているような気さえするのである。でも、 やっぱり失くしたものって・・・過去のことって・・・喉元過ぎればのたとえにあるように懐かしさほどよく思える物ってないかも・・ね。  いろん な事があった、ピンク・レディーという生活。その生活もあとわずかというところでのLastPretenderは非常に面白い出来栄えであると改めて思う のである。テレビでは全く歌われなかったが(まあYMOと一緒でないと無理でしょうから)ある意味あの星から来た二人を現実に戻したらという解釈で聴けば アンサーソング的かな・・と思ったりして(少々無理がありますでしょうか?笑)前作カバーのリメンバーよりよっぽど面白い作品に仕上がったいると僕は思 う。というのはピンク・レディーとはストレートな表現よりもちょっとぼかしたほうが夢がある。2回3回と聴くうちにはまっていくのがピンク・レディーの 歌。この歌ではケイちゃん歌ってるの?というほどファルセットが多くほとんどミーちゃんの声しか目立たないような気がするが、それだけぼかしたイメージな のである。歌詞はさりげなく、かなりシリアスである。pretender私は飽き飽きしたわに表されるように踊らされていたと思っていた自分たちをはっき りとここで主張しているようだ。(本当は踊らされていた訳ではないのですが)でも最後(僕はこの曲最後が好きです)だから最後の一言は・・愛するた め・・・手を離して・・・(Sorry,I have to go now・・)私たちはもう後戻りできない。さよなら・・・という意味あいのラストはかっこいい仕上がりで、こういう曲をピンク・レディーがシングルで出し たことは大きな意味を持つ、ここにきてピンク・レディーが現役時代に少しでも多くの作品をと思ったのかわからないが、後期のピンク・レディーは次から次へ といい曲を出した。デビュー曲から順に聴いていくと全部の楽曲に丸をつけたいほど、売れる 売れないは関係なくピンク・レディーというブランドに恥じない名曲が多かったように思う。全体の曲の中でこの曲が加わったことでまた歌の幅ができたような 気 がする。アップテンポばかりの中でもこれだけ多種類のパターンがあるのも珍しい、あとはバラードだけだ・・と思ったらラストシングルはバラードだった。
ちなみにこのジャケも好きな1枚。アルバムターニング・ポイントと同じ種類のジャケだが、ゆったりとした雰囲気でもう後は何も考えず最高にかっこよく終え ることだけという感じにも取れる1枚。お疲れ様といいかけたジャケ写であった。
そういえば、我家では娘にねんねさせるとき、「ラスト・プリテンダーして」とよくいっていた。意味わかりますか?ジャケ写です。ねんねしてるでしょ?だか らです。(笑)娘もねんねのことを「ラスト・プリテンダー」だと思っていた のかも・・(笑)娘自身も「今からラスト・プリテンダーするよ〜」とよくいっていたものです(笑)

OH!  (4: 55)          1981.3.5発売  最高46位  (100 位以内4週)20万枚
作 詞:阿久 悠
作曲:都倉俊一
編曲:井上 鑑

B面
夢中がいちばん美しい(4:18)
作詞:阿久 悠
作曲:都倉俊一
編曲:井上 鑑



ピ ンク・レディー4年7ヶ月を締めくくるのは この曲「OH!」
このHPピンク・レディーの風コラム集の第1回目はこのOH!について語りました。このOH!STEPというタイトルのヒントになった言葉です。
あのピンク・レディーの原点を作り上げた阿久-都倉コンビが久々に復活、やっぱり締めくくりはこの2人の曲ですね。コラムでも書きましたが普段の生活の中 でもフッとした瞬間、心がときめいたり戸惑ったりいろんなOH!があふれてますよね。まさにピンク・レディーの4年7ヶ月とはこのOH!の連続だったこと でしょう。スター誕生に出場したとき胸にOh!というバッジをつけていたことも因縁でしょうか。この時からふたりのOH!は始まったのです。・・いいえ もっとさかのぼれば中学時代ふたりが出会った時からこのOH!は始まっていたのかも知れません。ふたりの友情と情熱で作り上げたピンク・レディー。デ ビュー当 初、なかなかヒットしなかった時のあせり、初めての大きな賞レコード大賞の大衆賞を受賞したときの喜び、アメリカでの充実した仕事の裏にひそんだ苦悩、 いっ ぱい泣いていっぱい笑った、それ らをすべて阿久先生はご存知でしたね。阿久先生にとっても新しい作品を作るたびOH!の連続だったのだと思います。阿久先生に限らず都倉先生、土居先生ら ピンク・レディーに関わった全ての方たちに しても同じ想いだったと思います。みんな、あのマンデーを書いたときと同じ想いで こ の曲を送り出したのでしょう。ラスト・シングルにつきものの「さよなら」「お別 れ」などという言葉は全く出てきません。何故でしょう・・それはきっとふたりの存在が永遠だからです。最後の最後にさよならなどという事よりほん との意味で「やれることは精一杯やってきました」のほうが 遥かにピンク・レディーを象徴しているし、最後を飾るにふさわしいからです。今までは夢の世界を歌ってきたピンク・レディーに最後は生身の女性として心を 歌わせたような気がするのです。ふたりの好む世界はあのマンデー・・とこのバラードOH!なのでしょうね。これも逆をいえば、ヒットチャートと縁がなく なって実現したことだと思います。解散して新たにソロ活動をするふたりに送るメッセージのようにも取れます。まさに激動の4年7ヶ月を送ったふたり。じっ くりしみじみと歌い上げたOH!は同じく激動の青春を送った我々ファンたちにもまさに万感の想いでした。ふたりの喜びも悲しみも全て共有してきたのですか ら、我々にとっ てもOH!の連続だったのです。ファイナルは1981年3月31日雨の後楽園球場のステージだった。わずか2年半前予定を2日に延ばし行った7万人コン サートと同じ会場である・・・が、もう、この時は超満員にはならなかった。空席の目立つ後楽園球場のステージでずぶぬれになりながら歌うふたりは何を思い 歌っていたのであろう。山の向こうに遥かに広がる青空、その青空のような存在でしたね、ピンク・レディーというのは、大きくて雄大でそれでいてすがすがし い。その大きな空間の中で遥か向こうに見えるものを追いかけて いるうちにフト自分の足元を見ると自分に足があることに気づく。これからはこの足で・・自分の足で歩んでみたい・・そう思ったのがピンク・レディーを辞め るきっかけになったのではないかと推察いたします。(あくまでも推察です) ピンク・レディーという枠も中ではもうどうにも動きが取れない・・と後日談にもあったように、ふたりにとって栄光であるはずのピンク・レディーがこの時に はただ苦痛でしかなかったのかもしれません。早くピンク・レディーから逃れたい・・と思う気持ちもこの頃のおふたりの正直な気持ちだったのでしょうね。そ れほどまでにピンク・レディーというものの存在は大きかったのである。僕らファンにとっ たら辞めて欲しくないと思うのが正直な気持ちだったが、最後すぶぬれで歌うふたりには、よくがんばったよ、ミーちゃんケイちゃんは。と自分の気持ちを なぐさめながら最後の1日が終わったのであった。プロジェクトのメン バーにしてもあのスター誕生の後、全く期待のされなかった二人組みを世界にまでのし上げたのだからそれぞれに想うことはあったであろう、ピンク・レディー をやった事、それはみんなの熱い想いの結晶だったのではないだろうか。夢を追いかけ夢を見た、その中でたくさんの人たちを一緒に夢の中へと誘った。まさに OH!の連続だったことでしょう。ピンク・レディーが終わった、これが現実となったとき、寂しさと一緒に言葉では表せないほどの充実感を感じていたのでは ないでしょうか。10年にも20年にも思えたというふたりのコメント通り、時差にでもあったような空間だったのだ。夢の世界では4年7ヵ月は20年分に相 当 する素晴らしい年月だったと思う。お疲れ様、ピンク・レディー!・・・ひとつの時代が幕を下ろした瞬間であった。 最後、さよならと歌わなかったOH!このことは後になって答えが出てきたと思う。

ここまでを振り返って
ピ ンク・レディー  1976年8月25日デ ビュー1981年3月31日解散
活動期間4年7ヶ月。
振り返るとたったこれだけの日数?と思われることでしょう。
わずか4年半でミリオン10曲、連続1位9曲、シングルセールス1800万枚。
その他キャラクターに使われた商品250点。記録だけが語れる偉業。(1977年1978年)この後アメリカ進出、ビルボードでのTOP40入り、レギュ ラー番組の獲得。こんなにも短い間にまさに駆け抜けるようにピンク・レディーは中身の濃い仕事をこなしてきた。
今、ピンク・レディーを振り返るときすべてを通して共通していること、それは最初から最後まで誰もやれなかったことをやってきたということ。そし て常に未来に向けた仕事だったということでしょう。
活字にしてしまうとこれだけで終わってしまいますが今までの常識とされていたことを覆す。これは大変なことです。当時、周りにいた他の歌手たちと何が違っ たのかそして何故いまだに2度と同じパターンの歌手が現れないのかそれは・・・ひとつ・・・心です。最初ピンク・レディーを作るとき阿久先生らスタッフは 失敗を覚悟で作ったといいます。ミーとケイ本人たちにしてみれば念願のプロ歌手になれた後、どう売り出してくれるかは周りに委ねなければなりませんでし た。プロダクションも有名ではない小さな会社で大手のマニュアルを持った会社とはまるで違っていました。大手の会社はこれぐらいが妥当であろうという考え の中で売り出すあのYさんもグループCズさんも同じ最初から最後まで完全に妥当な路線を崩しませんでした。一方ピンクさんの場合マニュアルのないところか らスタートしたわけですから、大きなバクチを打つのと同じ状態だったと思います。結果大当たりだったわけですね。でも、マニュアルのないものはそこからが 苦悩の道を辿ることとなりました。全く先の見えない状態になったとき行く手を阻むものは人気の低迷、マスコミの非難だったわけです。当たりが大きければ大 きいほどそのリバウンドは計り知れないものがある。それはこの世のルールみたいなものでしょうがなかったと思います。でも、大きな賭けにでたピンク・レ ディーの答えは今出てきているように思います。みんなの心意気で作り上げたもの、その心は今でも人々に愛され親しまれ受け継がれています。僕自身色んなも のに影響を受け育って来ました。中でも純粋だったころに影響をうけたものというのは簡単には離れません。このピンク・レディープロジェクトの裏側を覗いて みると実に情熱の大切さ、周りに流されずこれでやるんだ!という決断力そして人を愛する気持ち思いやり等人生においても大事なことをたくさん含んでいると 思います。だから今でもピンク・レディーが好きでこのページを立ち上げようと思ったのかも知れません。歴史にその名を残す人というのは、それなりの何 か・・があるのだと今さらながら思っているのです。


           
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