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ピンク・レディーのふたりは共に静岡市の出身。
共に静岡市で生を受けたが、二人が出会うまでには14年の歳月を経てのことであった。

ケイ昭和32 年9月2日誕生。乙女座
3人兄弟の末っ子として生まれるが、2才のときに父親が病死。
そのため、彼女は母や兄弟と別れ、静岡県焼津市に住む、叔母夫婦の養女として引き取られることになる。
漁港として有名な焼津で育った彼女は、小学校に入る前から、もう泳ぎをマスターしていたとか。
歌はもちろん得意で大好きな都はるみさんの曲をよく歌っていたそうです。
幼少期はおてんばで活発な女の子だったとか。

ミー昭和33年3月9日誕生。魚座
2人兄弟の長女として生まれる。
父の仕事は砂利採取業。
この仕事の関係で、小学校6年の時、山梨県南巨摩郡南部町に引越し。
この時は周囲は山ばかりという環境で、彼女は慣れない淋しさによく泣いたという。
この頃、母親が交通事故で3ヶ月の重症を負うというアクシデントがありました。
まだ、11才のミーは母の代わりに炊事洗濯など家事の一切を仕切っていたとか。これが料理上手なミーちゃんの誕生だったのですね。
幼い頃は引っ込み思案な子だったそうですが、唯一人前で歌うことは得意だったそうで、この頃から歌手になることは確定されていたのかも知れません。

そんな二人が運命の出逢いを果たすこととなるのは中学生になってから・・・

まず、ミー が父親の仕事の関係で、中学1年の12月頃、ふたたび、静岡市へ戻ってくる。そして静岡市立末広中学へ転校する。
その頃、ケイの方は漁師をやっていた叔父(つまり養父)が病死してしまい、叔母と一緒に静岡市内へ引っ越すこととなったのだ。そして中学2年の新学期から 末広中学へミーの後を追うように転校することに・・・。
しかし、同じ中学に通い出したからといってもすぐに出会ったのではありませんでした。
ケイは焼津時代から引き続きバスケット部。ミーは自分で作ったといわれるコーラス部でそれぞれの青春を謳歌していました。
同じ中学に通いながらも全く接点のなかった二人、そんな二人が運命の糸に引き寄せられるように出会ったのはあるアクシデントがきっかけでした。
それは二人が同じ中学に通い出して1年以上も経過してからのことでした。
中学3年になって間もなくの5月のこと。その日はお天気はあいにくの雨模様。
体育館でいつものように、ケイはバスケットの練習に励んでいました。
ところが、濡れた床の上ですべってしまい、脊髄がずれてしまうという大怪我をしてしまったのです。
夏の大会は目前。スタメンの彼女は最後の試合だからと叔母にも先生にも告げず、1週間そのままで練習したそうです。
脊髄がすれた状態で1週間なんてとても考えられないことですが、並外れた根性はこの頃から持っていたのですね。
当然のように、歩けなくなるほど悪化。試合どころではなく、結局、スタメンからも外され、泣く泣くバスケット部を退部したのでした。
一方、ミーの方はその中学3年になった頃、1年以上も頑張ってきたコーラス部が廃部となり、代わって演劇部へ入り、芝居に打ち込むこととなる。
その演劇部へバスケット部を退部したケイが入部したのは間もなくのことであった。
ここで、二人は運命の糸に引き寄せられるように出逢ったのである。

同じ演劇部で活動していたといっても、彼女らの間が急接近したのはある共演がきっかけだった。
「松屋町筋」この舞台の姉妹役をその年の秋の文化祭でやってから二人は同じ目標に向かって前進していくこととなる。
当然、同じ高校(私立常葉学園高等部)へと進学した二人だったが中学時代と同じく同じクラスにはなれなかった。というのも受験の願書を出すときお互い実践 コースをとろうといったにも関わらず、ケイの方が、間違えて進学コースをとってしまったからだ。
しかし、そんな小さなことにめげず彼女らの大きな野心はこの高校時代から大きく本格化していくこととなる。
高校入学と同時に静岡市内にあるSBS学苑で毎週木曜の夕方、モダンバレエのレッスンも受けていたふたり。
セーラー服のまま、バスで学校から直行。二人とも終わって家に帰ると夜の9時。それからやっと夕食だった。
同じく演劇部でも活躍していたが、二束のわらじは周りの批判を買い、歌手になることだけに目標を絞った二人に思いも寄らないチャンスが訪れる。
ヤマハ主催のチャレンジオーディション。彼女らがいずれ、プロ歌手へと進んでいくこととなる第1歩はこのオーディションからスタートするのである。
友人の紹介でこのオーディションを受けることとなる。ケイは「ジョニイへの伝言」ミーは「アルプスの少女」を歌い、共に月謝がタダという特待生として見事 合格。
この時点では彼女らはそれぞれソロの歌手として目指していたそうで「お互いにどちらが先に夢を叶えるか?」など話していたそうである。
が、このオーディション合格後、大きく運命は左右する。
高校2年の4月から浜松にあるヤマハボーカルスクールへとかようようになる。
レッスンを受けていた山崎朗先生からデュエットを進められたのはレッスンに通い出して間もなくのことだった。
それまでデュエットなどまったく頭になかった彼女らにしてみれば、ひょうしぬけというか?ビックリというか?
しかし、二人で目指すんだからいちばん手っ取り早いかも?そんな事を思う暇もなく彼女たちはプロ目指して”しごき”の毎日がやってくるのである。

ふたりの誓い

プロ歌手になる・・・活字にすればわずか数文字で終わってしまいます。しかし、それがどんなに困難なことか・・・(それは私もよ〜くわかります)
そんな困難極まりないイバラの道を彼女らは歩き始めたのです。相当の根性を据えなければ夢は叶わない。
だからでしょうか、彼女らはプロになるまである約束をします。
「プロ歌手になるまで絶対泣かないこと。どちらかが泣いたら泣いてない方が泣いた方にビンタをする」
今の世の中では薄れて来たかつてのスポ根もののワンシーンのようですね。
そんなワンシーンはそう遠くない時に訪れます。
その年の7月レッスン中に声がでなくなったケイが泣いてしまったのです。当然のごとくミーの平手打てがケイの頬に飛んだのはいうまでもありません。

ピンク・ レディー全盛期時代。このエピソードはピンク・レディー物語として数多くの雑誌に掲載された。
各雑誌において微妙にニュアンスの違うものもあるが、ケイちゃんが弱音を吐いてミーちゃんが喝を入れるというのは共通しているようで、ふたりの根性には子 供のころから、感動していた。

  
こういう類 のものの集大成がテレビアニメ「栄光の天使たち」だったのだ。
今回(03〜05にかけての)復活コンサートでもこの頃のことを語っているが、
今でもほんもののピンク・レディーにお目にかかれるのはこの頃からの親友であり、共に過ごした
青春時代があればこそだと思う。いくらスーパースターといわれるグループでもメンバーの気が合わなければ
実現不可能である。今でもコンサート中には演出にはないふたりの本音が伺えて
仲の良いふたりを見てるだけでも楽しくなるものだ。そういうところも、ファンの心を捉えて離さない要因なのではないだろうか。
下の写真はデビュー前のふたりだが、ケイちゃんがちょっと太めなところに注目いただきたい(ケイちゃん失礼!)
この太っていることでダイエットをさせられたとか。それからはスリムなケイちゃんがいることは周知のところだが。
しかし、なお今のピンク・レディーがあるのもこのころのふたりのがんばりがあったからであり、
あらためてピンク・レディーの偉大さはこの頃からあったのだと思う。




    
     こちらは、ケイの逆襲で ある(笑)


 

いろんな苦難の末「クッキー」というグループ名で活躍していたことはファンの方々であれば、いわずと知れたことであろうが、そのクッキー時代の写真が上に 掲載している写真である。
高校2年生くらいのときだろうか?

ふたりの強敵

高校3年生になった頃から彼女らの中にあせりが生まれ始める。
それは進路という現実を前にしてである。自分たちの周りはすでに就職、進学それぞれの道を決めそれに向かって進んでいたが、ミーとケイの二人だけが何も決 まっていなかったのだ。当然彼女らの就職先は芸能界と決めていたが、それに通ずるためのクッキーがプロデビューする気配は全くなく、彼女らは高校3年生の 秋、ある決断をする。
自らテレビのオーディション番組を受けようというのである。
オーディションに向けて猛レッスンが繰り返される。そんな時、彼女らの前に大きな強敵な現れる。(・・といっても透明人間や怪物じゃありませんよ〜)
その人は・・・ミーの父親である。ミーの父親はまだ高校生のふたりを心配して「もう、レッスンに通ってはいけない!」と二人を叱った。
それもそのはず、なにせ練習熱心はふたりのことです。ついついレッスン時間が延びて終電で帰宅することもしばしば・・・これでは叱られても仕方ありませ ん。(そりゃそうです、僕も娘がいますがそんなことあったら心配ですよ〜)
1時間おきにきちんと家に電話をする。そんな約束をしてまたレッスンへ通うお許しを得たのです。
しかし、決定的なピンチがその年の11月に訪れるのです。新しい曲のレッスンが始まったため、つい”約束”を破ってしまったのだ。
その後のことは察しがつくでしょう。
しかし、ここであきらめてしまっては今までの苦労も水の泡・・泣くに泣けないミーとケイでありました。チャンチャン・・ってもう終わりかよっ!!
そんなわけありません。実はケイちゃんがミーちゃんのお父さんの誕生日に手紙を添えてプレゼントを渡したのです。
そんな想いが実ってやっと理解を得たのであった。・・・ってミーの父ちゃんも単純!?物ににつられたの?ってなんつ〜こというのっ!!!

君こそ!スターだ!
当時話題のオーディション番組といえばスター誕生であったが、ミーとケイの二人は静岡に予選が周ってこないことにあせりを感じ、フジテレビの類似番組「君 こそスターだ!」の予選を受ける。
見事予選を突破した二人だったが、物事そんなに簡単には運びません。
歌唱力もステージ上のパフォーマンスも完璧だった二人に審査員は意外な判定を下したのです。
本選で優勝!君こそスターだ!となるはずでしたが、なんとまさかの本選敗退・・・
ケイちゃんの後日談で「自分達の歌には正直、自信があったのでショックでした」と・・・。

新鮮さがない・・・そんな不評とともにらく印を押されてしまったふたり・・・もう後が無い・・・・
背水の陣で望んだのは・・・それこそスター誕生であった。

しかし、静岡に予選がタイミングよく周ってこない二人がどうしてスター誕生の予選を受けられたのでしょう?
それには訳がありました。
ここで説明。当時スター誕生の予選は各地区ごとに行っており、静岡なら静岡でしか予選は受けられませんでした。
他県の予選を受けようと思っても無理なのです。(今のNHKのど自慢と同じです。経験者は語る・・・笑)
しかし、静岡に予選が周ってくるのを待っていたらもう高校を卒業後になってしまいます。
そこで、背水の陣と書いたことがここで立証されます。
なんと・・・東京の番組プロデューサーを訪ねていき、東京での予選会に出してほしいと直訴していったのだ。(以前のドキュメント番組でやってました。覚え てます?)

背水の陣・・・・彼 女たちは本気だった。どんなことをしても歌手になる。
そんな想いは本当に強かった。
君こそスターだ!のときの敗戦原因を研究し、今度はパフォーマンスも少なめ、衣装もオーバーオール・・・とかなり地味目にしていった。
NHKのど自慢もそうですが、綺麗に着飾った方はまず予選突破できません。なんといっても素朴さが大事なんです。
当時のスター誕生もそうだったんですね。

そんな背水の陣で望んだスター誕生で見事、合格した彼女たちは「絶対に歌手になる」という想いを叶えたのです。






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